軍国主義が台頭し、情報統制、マスコミ総動員で真実を知らされずに突き進んだ戦争は国民の尊い命が奪われアジアの国々とその人々の生活と命、遠くはオーストラリアの人々の命を奪ったのが太平洋戦争でした。歴史に学び、二度と過ちを繰り返してはなりません。
敗戦をむかえた1945年8月15日も電車が動き、復興のために旅客・貨物列車が運行されていました。
当時、人々は食べること、生きることに困窮し職場は荒廃するさなか、当時の運輸省や国鉄当局の干渉にあいながらも、労働者の手による労働組合の結成が進められ、自主的な鉄道職場の全国組織としてその第一歩を踏み出すこととなりました。
1946年2月27日石川県片山津にて国鉄労働組合総連合会の結成集会を開催して誕生しました。戦後復員者と満州鉄道からの引揚者の受け入れなどで、当時の職員数が50万人と言われ、その9割が参加していました。

国労結成記念の碑

国労結成記念碑

1946年2月27日、石川県片山津の国鉄職員集会所で国鉄労働組合総連合は産声をあげました。 それから20年後、同地に記念碑を建て、碑文には「待望久しかりし全国鉄50万全労働者の大団結今や成る」と刻みました。 記念碑はその後JR西日本に移った集会所が立て替えのために壊されたため、現在は北陸地本玄関前に仮移設されています。

創成期の国鉄労働組合

創成期役員

国鉄労働組合の本部事務所は旧国鉄本社内に置かれていました。当時、組合事務所は狭かったため、全国から上京してきた組合員は最上階の8階食堂で作業をしていました。しかし、食料事情の悪いときで、昼時は、屋上の鉄道神社前で静かに本を読んだりしてすごしていました。当時の写真は皆無に等しいのですが、右の記念写真は結成直後に、屋上の鉄道神社前で撮影された創成期の本部役員の記念写真です。

国労千葉地本の結成

国鉄千葉での組合づくりは、1945年(昭和20年)12月27日、当局からの指導も受けながら、まず千葉管理部連合準備会がつくられる。そのあと、翌21年1月5日には、職能別に運輸従業員組合が結成され、運転、工務、電気、管理部と、一部に名だけあるいは一部幹部の間でだけのところもあったが、いちおう組合づくりが進められていった。その頃、新小岩工機部の組合づくりも同じような経過をたどっていた。
そして、2月1日には国有鉄道労働組合千葉管理部連合会が発足し、同月8日には国鉄労働組合東京地方協議会ができ千葉もこれに参加している。だが、名実ともに組織が整備されるのは4月5日に単一体の国鉄東京地方労働組合ができ、五月にその下部組織である東労千葉支部という形になってからである。
このときの初代の支部長が北奥昌蔵氏、書記長が佐藤保氏であった。
1950年(昭和25年)8月国鉄千葉鉄道管理局ができ、同年11月1日臨時全国大会の決定に基づき千葉地方本部結成大会が開催され発足した。
(出典:国労ちば30年のあゆみ)